没後50年 鏑木清方展 – 東京国立近代美術館
鏑木清方展
東京国立近代美術館で開催された「没後50年鏑木清方展」にはるばる足を運びました。コロナ
感染状況が落ち着いており、陽気に恵まれた大型連休、さらにはテレビ番組で取り上げられた直後ということもあってか、多くの人出で入場制限がかかるほどの混雑ぶり。事前にインターネットで予約できたので時間どおりに入れたものの、列に並んでまで入場するのは久し振りだ。
そんな鏑木清方展であるが、やはり自分の目で見て感じ取ることが大事であるとつくづく感じた。そのことを思ったのは、事前にテレビの美術番組で見たのとは異なる気づきを得られたことだった。
その気づきとは、清方の絵はポートレイト写真であるということ。そしてもう一つ、清方はフェチだということだ。どういうことか。
ポートレイト写真との共通点
清方は美人画の名匠であるが、その画がポートレイト写真というのはもちろん比喩である。ポートレイト写真のごとく人物を浮き立たせる技法が使われているということである。清方の描いた美人を引き立てているのはまさに背景にぼかしや色彩遠近法のようなかすみ具合を取り入れているのである。
人物の写真で望遠レンズを用いて背景をぼかすことにより人物を浮き立たせる手法は、写真を趣味とする人ならお分かりだろう。とはいえ絞り開放背景で背景がボケすぎていて、どこで撮影したのかわからないような写真ともまた異なる。きちんと背景に明治の風景がわかる絶妙のボケ具合なのである。ある意味標準レンズくらいでよったポートレイトにも近い。
清方の絵に見るフェチシズム
もう一つ、鏑木清方はフェチだということ。つまり美人画はフェティシズムが表現されているのである。そもそも清方が描く女性は和装で、首筋が露わになる立ち姿が多い。うなじではなく首筋である。それは艶めかしいとは異なる。
そしてもう一つは和装の裾から覗く足である。それは今回の目玉である《築地明石町》の助成のポージングにもよく現われている。これも実に清方が好んだポーズで、和装の女性の首筋、そして裾からチラリと覗く足。
そう、これはアラーキーが言うところのチラリズムである。この足に魅力を感じていたのは間違いないだろう。
個人的には名都美術館所蔵の《露の干ぬ間に》がベスト。六曲二双の右隻に描かれている女性が最高。首と足許の色っぽさだけでなく袖口から二の腕がちらりと除く様がフェティッシュでありながら粋でもある。清方もそんなことを楽しみながら描いたのではないかと想像が膨らんだ。もちろん左隻の朝顔も素晴らしい。
常設展
常設展でも鏑木清方展に合わせた作品展示も成されており、土田麦僊の《舞妓林泉》や川崎小虎《萠出づる春》などの大型作品が見れた。また松本竣介も後期の赤茶色の作品が展示されていて見応えはあった。ただ清方展が人が多くて疲れが出てしまった。こううときは現代アートやシュールレアリズムは避けるに越したことはない。
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