白洲次郎・白洲正子──武相荘折々のくらし 富山県水墨美術館
富山県水墨美術館で始まった『白洲次郎生誕120周年記念特別展 白洲次郎・白洲正子──武相荘折々のくらし』展に足を運んだ。白洲次郎のことは戦後 GHQ と渡り合った人、白洲正子は随筆家という程度の知識しか持ち合わせていなかったので、ギャラリートークに合わせて訪れた次第。
白洲次郎は芦屋の生まれで、幼い頃から英語をたしなみ、ハーバードに留学も経験した。第二次大戦後に吉田茂の側近として日本の復興に尽力したのは有名。今回はその当時トイレットペーパーと表された分厚い巻物の吉田茂演説原稿(レプリカ)など歴史的な品も展示されている。英国流のプリンシパル……原理原則を信条として、生涯筋を通す生き方を貫いた、というのが知られている白洲次郎像ではないだろうか。
タイトルにもなっている「武相荘」とは白洲夫妻が住んだ旧邸宅のこと。現在の町田市にある農家を買って改装した。武蔵と相模の中間にあることから「武相荘(ぶあいそう)」と名付けたとのことで、次郎自身も愛想が無かったので悦に入っていたとか。
さて、白洲家はもともと三田藩の士族で、次郎が生まれたときには白洲商会という貿易商だった。正子は薩摩の伯爵だった樺山家の出身ということで、どちらも両家の出身である。ここ最近は「親ガチャ」という言葉が流行している(私は好きではない)が、格差の固定化というのは江戸時代から面々と続いているのではないかと思わせられる。そういう意味では白洲次郎は私とは別世界の存在に映ってしまうのだった。
そんな次郎と正子は二人ともしっかりとした自分の考えがあり、昔から良いものに触れてきたことによる価値観・美意識が一致したのだろう。次郎27正子19歳に出会って結婚に至ることになる。
白洲正子は代表作『かくれ里』で骨董と出会う。熊谷守一や、文芸評論家の小林秀夫や骨董の目利きとして知られる青山二郎、その青山の紹介で北大路魯山人とも交流があったとのことで、それらの品々が展示されている。ちなみに本展が富山で開催されることになったのは、水墨美術館で『画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展』の際に、熊谷の《ほとけさま》の軸を武相荘から借りたことがきっかけの一つだったとか。
また正子は加藤静允(きよのぶ)を見いだした。彼は小児科医だが正子により評価が高まり陶芸家に転身した。古伊万里のような染め付けの大皿は素晴らしい。
もっとも正子は『白洲正子 私の骨董』の中で「コレクションと名づけるものをいまだかつて持ったためしはない。かりにあったとしても皆そばにおいて日常使っているものばかり」と述べている。
使うことで本当の良さがわかる、というのはたしかにそうだろう。実際に所有していた中国・明の時代、平安時代、江戸時代の骨董も普段使いしていたらしい。この点も庶民ともただの金持ちのコレクターとも違う気質なのであろう。だからこそ正子の生き方に憧れる人がいるのかもしれない。
さて次郎は車好きで何台も持っていた。とくに気に入っていたのがベントレー。そしてジブリの映画に出てきそうな帽子とゴーグルをかけて乗っていたようだ。格好いいとしか言いようがない。
その実物のベントレー TX7471 がさいたまのWAKUI MUSEUM(ワクイミュージアム)から貸し出されて展示されている。1924 年製造の貴重な車両だがエンジンもかかるらしい。展示は 6/12 まで。写真撮影も可能。
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